今年のお正月あなたは初詣には行きましたか?そこでどんなお願いごとをしてきたのでしょうか。
健康ですか、出世ですか、あるいはお金でしょうか。
「初詣」とはその年の最初の参拝のことですが、それがそのまま「詣納め」になっている人が大半でしょう。
この記事では、そんな年1回のレア参拝者のあなたにせめて参拝の持つ「意味」をお伝えしたいと考えています。
先にいっておきますが、タイトル通り「他力本願」「神頼み」ではありませんよ。
記事を読むと、年1回の参拝が年2回くらいにはなるかもしれません。ではいきましょう!
お寺と神社は似て非なるもの
お寺には仏様が祀られていて、御本尊つまり仏像があります。一方、初詣で訪れる神社には神様が祀られていますが御本尊というものはありません。
神道では神様の姿形は具現化されておらず、寺社の仏像のように人の形をした対象物はありません。
昔はたとえば古い巨木を御神木=神様とみなして依代(よりしろ)といったり、御神体といったりしました。いにしえの時代には自然が礼拝の対象であったようです。
のちに中国より伝わった「剣」「玉」「鏡」といったものが礼拝の対象になりました。
他力本願のつもりで拝んだ神様の正体
では、参拝者が拝んでいる「神様」の居られる場所。そこにあるのは一体何なのでしょうか?実はそこにあるのは丸い“鏡”です。…意外でしたか?
日本民族の総氏神といわれる天照大神(アマテラスオオミカミ)は「私に会いたければこの鏡をみよ」といわれたそうです。
あなたが覗き込むその鏡には何が映っているでしょうか?―そう。鏡に映りこんだ「あなた」もまた鏡の一部であり、鏡に宿る「神」そのものなのです。
つまり、あなたは初詣で鏡に映った自分自身の姿を拝んできたのです。
他力本願どころか拝んでいるのは不完全な神
ただし、鏡に映る自分の姿は左右反転しています。自分自身の左右のバランスが崩れているほど御神体である鏡に映る姿からはかけ離れてしまいます。
逆に自分自身の左右のバランスがぴったりとれて「左右対称」であれば反転した姿とも一致します。
御神体と一体になるためには、自分自身が左右のバランスがとれた姿にならないといけません。では、どうすれば調和のとれた姿になれるのでしょうか?
これについては、日本一の納税者である斎藤一人さんも著書の中で触れられています。
「鏡(かがみ)」から「が」を抜くと「神(かみ)」になります。
この「が」とは「我」のことだそうです。
つまり、「我(が)」があらゆる不調和のもとであり、これを無くすと神に近づくということのようです。
神を信じることはなんら他力本願ではない
つまり神様とはどこか遠いところに居る存在ではなく、自分の内側に居る存在ということなのです。神は「自分自身と一体のもの」なのです。
だから
「成績が良くなりますように」
「志望校に合格しますように」
「ビジネスが成功しますように」
「今年こそ結婚できますように」
とあなたが拝んできた願いごとは、すべて自分に対する「宣言」であるということです。
まとめ
いかがだったでしょうか?
毎年鏡を拝んでいたって知っていましたか?「鏡(かがみ)」という言葉は「輝く身(かがやくみ)」が語源だとも言われています。
すなわち、自分の手で願いごとを掴み取ろうと主体的に努力し輝いているあなたの身が「鏡」、つまりは神様なのです。
そう考えると、「天は自ら助くる者を助く」この言葉も腑に落ちますね。
あなたの今日がほんの少しストレスフリーに近づくことを願って。