人前で話すことに苦手意識を持っている人はかなり多いと思います。
きっとほとんどの人が、多かれ少なかれ持っているんじゃないでしょうか。
披露宴でのスピーチや企画のプレゼンテーションなど大人数を前に話すことは確かに大きなストレスになるでしょう。
あるのは緊張の程度の差だけ
「人前で失敗して恥をかきたくない」「自尊心を傷つけられたくない」そう思うほどあがってしまうものです。
その結果、緊張で頭が真っ白になり言葉が出てこなかったり大勢の視線を浴びて大汗をかいたり、声が震えたり。
ただ、その程度に個人差があるだけなんです。
あがり症に関して食い違う認識
「あがり症は場数を踏めば治る」回数をこなして緊張に慣れてしまえばいい。
「あがり症は場数を踏んでも治らない」緊張と不安の中で失敗体験を重ねるだけ。
世の中にはいろんな人がいます。いろんな人がいろんなことを言っています。そしてその人たちの主張する論理と論理は矛盾します。
誰の言うことが正しいのかなんて結局わからないのです。
誰が言っていることでも、自分にぴったり合えばそれが「自分にとっての真実」です。
あがるとはどういうことか
「あがる」とは人前で失敗して恥をかき自尊心が傷つくことを極度に怖れた結果、理性のコントロールを失う状況を指します。
あがり症は病気?
そもそも「あがり症」は病気なのでしょうか。僕はまずそこから疑問に感じています。
ネットで検索してみると“「あがり症」は神経症のひとつである対人恐怖症の俗称である”という説明がなされています。
そんな説明を見ると不安になりますね。
人前で話すときに、心臓がドキドキしたから、顔が赤くなったから、手や顔や背中に大量の汗をかいたから―だから自分はあがり症だとラベリングするのは安易過ぎます。
そして、それ以上に危険なことだと思うのです。
あがるのは人間の本能
そもそも「あがる」のは人間の本能なのです。
- 自由欲求の本能
- 自己防衛の本能
- 自己尊厳の本能
これら3つの本能により、あがる状態が誘発されるといわれています。あがるということは人間の証明でもあるのです。
たとえば披露宴でスピーチを頼まれた場合には次のようなことが起きます。
- スピーチが終わるまで精神的に束縛された状態になる
- 会場の視線を一斉に浴びて緊張し身を守ろうとする
- 失敗して自尊心が傷つくことを怖れる
これらは本能による働きですから避けられません。
病気だと決めつけるのは早い
日常生活に重大な支障をきたすレベルでなければ「病気」として扱うべきではないというのが僕の個人的な意見です。
病気なんだという認識が、今まで以上にその症状に意識を向けさせて結果として悪化するような気がしてなりません。
もっとドキドキしてくる。もっと汗が噴き出してくる。もっと震えるようになる。
神経症というのはやっかいなもので、不安に思うほど意識がそこに集中し症状が強く出るものです。
あなたがもし、不安や緊張にみまわれたときには、“感情”ではなく“行動”に意識を向けるという発想が大切です。
このことについて詳しくはこちらの記事をお読みください。
もっと心配なこと
不安に思うあまり、自分で重篤化させてしまうことのほうが怖いと思います。
【あがり症】
軽いものは自然に治ってしまうものであるが、一方で社会的生活に支障をきたすほど対人不安が高まってしまう場合、神経症として治療が必要である。慢性化すると社交不安障害、パニック障害、ひきこもり等の引き金となりかねない。
出典:Wikipedia
治る治らないの問題ではない
極論すれば「治らなくても慣れてしまえばいいのではないか」と思います。
「緊張しないこと」「汗をかかないこと」「震えないこと」それらが人前で何かを話す目的ではないはずです。
「人に内容を伝える」という本来の目的を果たせるのであれば不安や緊張を抱えたままでも問題ないと思うのです。
そんな感情を抱えたままでも上手く話せる訓練をすれば良いのです。
それなのに“症状”を取り除くことばかりにフォーカスするから余計に症状がクローズアップされるのです。
「不安や緊張があってはダメだ」と思うと、そこに囚われます。
不安という感情をいったん横に置いて話すという行動に集中することで、人前で話すことはいくぶん楽になると思います。
人間は慣れる生き物です。
冒頭の主張に対する私の意見は、
「あがり症は場数を踏めば治る」
「あがり症は場数を踏んでも治らない」
このどちらとも違っていて「あがり症であろうがなかろうが場数を踏めば慣れる」ということです。
あなたの今日がほんの少しストレスフリーに近づくことを願っています。