どうしても実現したい目標がある。そのためにずっと努力も続けてきた。でも、すべての努力が報われるとは限らないのが現実です。
目標に届かないことだってある
「あれだけやったのに目標に届かなかった…」そんな時は、本当にもうガックリと力が抜けてしまいます。
しばらくは何もやる気がしなくなるかもしれません。人によってはものすごく落ち込んだり、無気力になったり、あるいはヤケになったりするかもしれません。
外に対しての負け惜しみはしない
本当は悔しくて仕方ないのに無理をして「あんなの初めから自分にはムリだと思ってたし」とか「ホントは別にどっちでも良かったんだよ」とか「全然本気出してなかったし」とか。
そんなふうに自分の思いを偽る必要はないと思います。そんなことを言っても、言う本人も聞いてる方も痛いだけです。「外に対して」の負け惜しみは言わない方が良い。
それでは自分が惨めになるだけです。
負け惜しみとは
負け惜しみという言葉の意味を調べると「自分の負けや失敗を素直に認めないで意地をはること」とあります。
周囲に対しては、負けや失敗を素直に認めましょう。だからといって、必要以上に自虐的になることはありません。
そのほうが潔く、失敗をしたとしても好意的に受け入れられます。逆にそこで変な言い訳をしてしまうと、ただ見苦しいだけです。
また、その方が自分のダメージも少なくてすみます。
「悔しい」とか「情けない」とかストレートな感情を口にすればいいのです。
大切なのは、自分の内と外とで態度を変えることです。自分の中では、必ずしもそれを「失敗」ととらえる必要はないのです。
Sour grapes
イソップ童話に登場する「すっぱいブドウ」の話をあなたもご存知でしょう。
物語の中で、キツネは木になっているブドウを見つけます。
キツネが見つけたブドウはとっても甘くて美味しそうなのですが、高い木の上の方になっていてとても手が届きそうにありません。
飛び跳ねたりいろんなことをしたみた結果、結局あきらめるのです。
今までは「甘くて美味しそう」と思っていたブドウですが、それが手に入れられないとなった途端にキツネは「あのブドウはきっとすっぱいに違いない」と言い出します。
そう思うことで、自分を納得させようとしているのです。この行為を「負け惜しみ」といっています。
とらわれないための合理化
このキツネは愚かでしょうか?カッコ悪いですか?僕はそうは思いません。生き方の上手い「賢者の考え方」だと思います。
言い訳のように理由づけして行為を正当化することを心理学では「合理化」といいます。これにより、一つのことに対する区切りがつきます。
ムダにいつまでも済んだことにとらわれないのでまた次の新しい目標を見つけて、そこに向かうことができます。
自分の中で完結する言い訳なら構わない
自分の中での反省会で「言い訳」を言うことは実はポジティブな行為だと思います。
言い訳をすることで、「自分は何をやってもダメなんじゃないか」「もう何もやる気がしない」「もうどうなっても構うもんか」というネガティブな感情を昇華しているのですから。
前向きにケリをつける
自分に対してさえ「言い訳をしない」というのは、しんどいことです。現実には、そんなストイックな人ばかりいないと思うのです。
もし自分に対してさえも、一切の言い訳をしないという人がいたらそれはただ「失敗した」という事実に打ちひしがれているだけ。
まだ失敗した自分を憐れんで、その状況に酔っているのかもしれません。
それよりは「自分はもっと別の目標を探すんだ」と言い訳でも負け惜しみでも言って、早めにケリを付けたほうがよほど建設的だと思うのです。
答えが一つということはない
「いや、オレがキツネなら最後まであきらめずに食らいつくけどな」という人はそれもいいでしょう。
でも、体中傷だらけでボロボロになるまで飛び跳ねてやっと掴んだそのブドウが本当にすっぱかったら?そのときはどうしますか?
目の前のことをやり切っておく
だからこそ、いつまでもそこにこだわらず次に目を向けるのもひとつの手だと思うのです。そのためには、前向きな「言い訳」をどんどん自分に対してするべきです。
そして、その言い訳をするための大前提として何か目標があるなら、適当にやってみるのではなく、「どう考えてもこれ以上はやりようがない」「これだけやってダメならもう仕方がない」と思えるくらいにやりきっておくことが必須なのです。
言い訳をする資格
中途半端にやっておいてダメだったときに、「あのときもっと真剣にやっていたら」とか「死ぬ気で本気を出していたらな」とか、そんなことをいう人が多いので、こんなことを書いてみました。
以上、言い訳をするにもその「資格」というものがあるという話でした。
あなたの今日がほんの少しストレスフリーに近づくことを願って。